あの日あの時。其の三
~夏休みの帰郷~
横浜へ引っ越して最初の夏休み、私は8月一杯田舎で
過ごす事にしました。狭い横浜の借家では周りに気兼ねして
オナニーも満足に出来ません。
私達が住んで居た田舎の家は祖父(父の親)の家の敷地にあり?
300坪も有る広い敷地に、祖父母達が住む母屋と向かい合う形で
私達の住む別棟が有りました。私達が横浜に引っ越した後も
其の家は其の侭に残されていたので、何時でも帰れる状態でした。
何れは後を継いでいる叔父(父の兄)の息子が所帯を持つまでは
空き部屋は自由に使っても良い事になってました。
言うなれば田舎に別荘が有る様なもので、私は高校を卒業して、
社会人に成るまで毎年夏休には訪れて居たのです。
ここで祖父たちの家族を紹介して置きます。
祖父、九重郎、当時70歳。祖母、ユキ、当時67歳
叔父、五郎、当時48歳。嫁、君代、当時45歳(元看護婦)
叔父の長男、義巳、当時20歳。次男、幸光、当時15歳。
叔父の一人娘、登美子当時13歳(歳は私より一つ上だが同学年)
現在は、祖父、祖母、叔父、嫁さんの四人は他界して居ります。
因みに私の家族は
父、三郎、当時44歳。母、美代子、当時41歳。私当時13歳。
弟、拓也、当時9歳。妹、綾乃、当時11歳。末の妹、桜、6歳
現在は、父も母も他界しております。
夏休みに入って早速私は一人、元住んで居た田舎に帰って来ました。
田舎の家は「お蚕」を遣っていたので、家の中は母屋も別棟も「お蚕棚」
がびっしり並び、人の寝る所も無い様な状態です。
それでも別棟には二部屋の空き室を用意して置いて呉れてました。
お盆には父と母、弟や妹達が皆で来るからです。
お蚕を遣ってる時は人手は幾ら有っても足りません。
私も着いた翌日の朝、夜が明けると共に、
叔父さんと一緒に畑へ「桑積み」に駆り出されました。
従兄弟の義巳も幸光も別な畑に行ってます。
一時間程で籠に一杯桑を摘んで帰ってくると、
朝食の用意が出来てます。
当時は米も味噌も野菜も卵も、牛乳も、全て自家製、
買うのは海産物ぐらいで、それらは行商の叔母さんが
週に一度運んで来るのです。
昼には「紙芝居屋」「アイスキンディー屋」が毎日定刻には
来ておりまして、キヤンディー屋の鐘が聞こえる、ともうじきお昼
だなと判り、紙芝居の拍子木が聞こえると午後の3時
だと判った物です。
朝食が済むと暫く「勉強」します。
毎日母から電話が掛かってきて、「ちゃんと勉強してる」
「宿題は進んでるんだろうね」とチェックが入るのです。
宿題が終ると、近くの川に従兄弟達と「水浴び」に行きます。
従兄弟の中でも同学年の登美子とは何時も一緒でした。
大人に成ったら「伊佐雄」のお嫁さんに成る何て言ってた、
登美子も中学にも成ると、よそよそしく成って口も余り
聞いて呉れません。誰か好きな子(男)でも出来たのでしょう。
小さい頃は登美子も私もスッポンポンで水浴びしたり、
互いのオシッコするところを覗き合ったりした仲なのにね。
お盆を間近にした12日、母と弟、妹達が父より一足先に
遣って来ました。父は仕事の都合で夜に成るとの事でした。
私が何時もの様に川で水浴びしていると、
少し離れた水沼橋の方から、
「お兄ちゃんぁ~ん」と呼ぶ声が聞こえて来ました。
橋の上には弟妹と母が手を振ってます。
子供三人は橋を渡って土手の上を走ってきます。
母は夏でもキチンと着物を着こなし日傘を差して、
ゆっくりと歩いて来ます。
陽射しに照らされた薄手で一重の夏の着物姿は
パンティーと太股の辺りが透けて見えます、
そんな母に逢うのが少々照れくさく成って来ました。
野良着姿の叔母達を見慣れた私の目には、
着物姿の母がまるで映画スターの様に見えたものです。
夜に成り、晩ご飯が終わった頃に成っても、遅れて来る筈の父が未だに来ません。
私の田舎の家は道路(村道)からは専用の坂道を100メートル程、登った所に有りました。
坂の途中には、牛小屋、鶏小屋、ウサギ小屋、山羊小屋、等が並んでおり、
農機具を収容し修理する建て家が有りました。
其処には溶接機から鍛冶屋が使う様な道具が一色揃って居て、
父の専用工場の様な場所でした。
余りにも遅い父を待ちかねて、私達4人の子供は坂の下まで出て行って待つ事にしました。
辺りは真っ暗ですが坂道の入口には街灯が一本立って居りました。
見上げる空には満天の星が煌めき、時折流れ星が見えました。
「あっホタルが飛んでる」
と言う妹の声につられて草村を見れば、
数匹のホタルが淡い光を絡ませながら飛び交っておりました。
「父ちゃんが着たよ」
と言って弟が駆け出して行きました。
私も妹達も後を追いかけます。
父に飛び付く弟と妹達、私はちょっと大人ぶって
「荷物もつよ」と言って父の手を解放してあげました。
小さな妹と弟を父は両腕で抱き上げると力強い足取りで坂道を歩いて行きました。
横浜へ引っ越して最初の夏休み、私は8月一杯田舎で
過ごす事にしました。狭い横浜の借家では周りに気兼ねして
オナニーも満足に出来ません。
私達が住んで居た田舎の家は祖父(父の親)の家の敷地にあり?
300坪も有る広い敷地に、祖父母達が住む母屋と向かい合う形で
私達の住む別棟が有りました。私達が横浜に引っ越した後も
其の家は其の侭に残されていたので、何時でも帰れる状態でした。
何れは後を継いでいる叔父(父の兄)の息子が所帯を持つまでは
空き部屋は自由に使っても良い事になってました。
言うなれば田舎に別荘が有る様なもので、私は高校を卒業して、
社会人に成るまで毎年夏休には訪れて居たのです。
ここで祖父たちの家族を紹介して置きます。
祖父、九重郎、当時70歳。祖母、ユキ、当時67歳
叔父、五郎、当時48歳。嫁、君代、当時45歳(元看護婦)
叔父の長男、義巳、当時20歳。次男、幸光、当時15歳。
叔父の一人娘、登美子当時13歳(歳は私より一つ上だが同学年)
現在は、祖父、祖母、叔父、嫁さんの四人は他界して居ります。
因みに私の家族は
父、三郎、当時44歳。母、美代子、当時41歳。私当時13歳。
弟、拓也、当時9歳。妹、綾乃、当時11歳。末の妹、桜、6歳
現在は、父も母も他界しております。
夏休みに入って早速私は一人、元住んで居た田舎に帰って来ました。
田舎の家は「お蚕」を遣っていたので、家の中は母屋も別棟も「お蚕棚」
がびっしり並び、人の寝る所も無い様な状態です。
それでも別棟には二部屋の空き室を用意して置いて呉れてました。
お盆には父と母、弟や妹達が皆で来るからです。
お蚕を遣ってる時は人手は幾ら有っても足りません。
私も着いた翌日の朝、夜が明けると共に、
叔父さんと一緒に畑へ「桑積み」に駆り出されました。
従兄弟の義巳も幸光も別な畑に行ってます。
一時間程で籠に一杯桑を摘んで帰ってくると、
朝食の用意が出来てます。
当時は米も味噌も野菜も卵も、牛乳も、全て自家製、
買うのは海産物ぐらいで、それらは行商の叔母さんが
週に一度運んで来るのです。
昼には「紙芝居屋」「アイスキンディー屋」が毎日定刻には
来ておりまして、キヤンディー屋の鐘が聞こえる、ともうじきお昼
だなと判り、紙芝居の拍子木が聞こえると午後の3時
だと判った物です。
朝食が済むと暫く「勉強」します。
毎日母から電話が掛かってきて、「ちゃんと勉強してる」
「宿題は進んでるんだろうね」とチェックが入るのです。
宿題が終ると、近くの川に従兄弟達と「水浴び」に行きます。
従兄弟の中でも同学年の登美子とは何時も一緒でした。
大人に成ったら「伊佐雄」のお嫁さんに成る何て言ってた、
登美子も中学にも成ると、よそよそしく成って口も余り
聞いて呉れません。誰か好きな子(男)でも出来たのでしょう。
小さい頃は登美子も私もスッポンポンで水浴びしたり、
互いのオシッコするところを覗き合ったりした仲なのにね。
お盆を間近にした12日、母と弟、妹達が父より一足先に
遣って来ました。父は仕事の都合で夜に成るとの事でした。
私が何時もの様に川で水浴びしていると、
少し離れた水沼橋の方から、
「お兄ちゃんぁ~ん」と呼ぶ声が聞こえて来ました。
橋の上には弟妹と母が手を振ってます。
子供三人は橋を渡って土手の上を走ってきます。
母は夏でもキチンと着物を着こなし日傘を差して、
ゆっくりと歩いて来ます。
陽射しに照らされた薄手で一重の夏の着物姿は
パンティーと太股の辺りが透けて見えます、
そんな母に逢うのが少々照れくさく成って来ました。
野良着姿の叔母達を見慣れた私の目には、
着物姿の母がまるで映画スターの様に見えたものです。
夜に成り、晩ご飯が終わった頃に成っても、遅れて来る筈の父が未だに来ません。
私の田舎の家は道路(村道)からは専用の坂道を100メートル程、登った所に有りました。
坂の途中には、牛小屋、鶏小屋、ウサギ小屋、山羊小屋、等が並んでおり、
農機具を収容し修理する建て家が有りました。
其処には溶接機から鍛冶屋が使う様な道具が一色揃って居て、
父の専用工場の様な場所でした。
余りにも遅い父を待ちかねて、私達4人の子供は坂の下まで出て行って待つ事にしました。
辺りは真っ暗ですが坂道の入口には街灯が一本立って居りました。
見上げる空には満天の星が煌めき、時折流れ星が見えました。
「あっホタルが飛んでる」
と言う妹の声につられて草村を見れば、
数匹のホタルが淡い光を絡ませながら飛び交っておりました。
「父ちゃんが着たよ」
と言って弟が駆け出して行きました。
私も妹達も後を追いかけます。
父に飛び付く弟と妹達、私はちょっと大人ぶって
「荷物もつよ」と言って父の手を解放してあげました。
小さな妹と弟を父は両腕で抱き上げると力強い足取りで坂道を歩いて行きました。
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プロフィール
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アヤメ草(万屋太郎)です。
演歌の作詞や官能小説書きを趣味とする、
今年72歳に成る“色ボケ爺さん”です。
何時も私のブログを見て頂き
有難う御座います。
私の別ブログ
“詩(うた)と小説で描く「愛の世界」”
も開設から八年目に入り、
多くの作品を公開してまいりました。
此処にはその中から選んだ
昭和時代の懐かしい「あの日あの頃」
の作品をまとめて見ました。
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