小説・秋の夜話。其の七
「嬉しいか。なあ・・・」
と男が囁いた時、礼子は如何して良いか判らなかった。
「旦那さん」
「あによ」
「あたし、恥ずかしいけど、如何して良いか判らないの」
と、礼子は辛うじて声を出してそう言った。
「それが殺し文句と言うんだべえ。嘘にしても良く出来た洒落だわい。
礼子さんよ。良く言って置くがな。帰ったら直ぐ増蔵さんに尽くしねえよ。
それでねえと、間男したのがばれるでな」
「でも、あたし、旦那さんに操を立ててる・・・うちの人とは・・・」
「殺し文句が盛んに出るなあ。これじゃ男は堪らねえ。ほら寄って見ねぇ。
増蔵さんほどではねえかも知れねえが、おら、村じゃ美男の方だわ」
「ねぇ、お前さん、お留さん、お留さんを知ってる」
「戦争後家の婆か。知ってるともさ」
「いいえ。旦那さんに聞いてるんじゃないの。その・・・むな内に聞いてるのよ・・・」
「ふん。小旦那にかい。小旦那はこの通り太え野郎だから、大抵の後家の家は覗いて居べえ・・・
あちちち・・・そう邪険にひねるなよ。ひねりようによっちゃ、恐ろしく痛え事があるんだわ」
「女が心を許さなければ、何でも子が出来ないって言ってたけど、ほんと・・・」
「はあ。戦争後家に何か聞かされて来ただな」
「ねぇ。女が心を許って、どう言うこと。教えて頂戴。あたしにも・・・」
「適わねえな。そう真綿で首を吊るように、遠回しに妬かれちや。
いっそ位牌の事も聞いたなら聞いたと、はっきり言って貰いてえ。
あの婆、また詰まらねえ事を喋ったんじゃねえか。ありや皆嘘だわい」
「妬いてんじゃないのよ。ねえ。心を許すって、如何言う事・・・
あたし子が欲しいんだから教えてよ・・・」
「可笑しくって、教えられねえよ。誰でも判ることだわ。ほんとうに・・・」
男は面倒臭がって取り合わなかった。心はもとより、場所も落ち着かず、詰まらぬ痴話の戯れに、
時を移すでもないのである。礼子はしょうことなしに、男から離れて藁の上に坐るのだった。
「誰か来るでよ。なあ」
と急き立てられて、礼子は藁の上に顔を伏せ、片手を後へ回して、少しづつ浴衣の裾で顔を隠した。
暗がりに目が馴れて来ると、そこらが薄明るく見え出した。隣の風呂場の焚き残りが、筒抜けに屋根裏に移り、
その反射でぼんやりと此方の部屋も照らされて居る。甚太郎の目の前には、意外にも女が身仕舞して坐っている。
浴衣の袖はすっぽりと頭にかぶさり、肩と胸とが剝き出しになって居るのだった。
「めでたし。恵まるゝ者よ。なんじはアンゴラ兎と偕なり」
聖書にある。まことの天使なら、こうも呟き、賛美した事であろう。
アンゴラ兎より他に係わる事の無い、清浄の身体で有る事は、この様にして明瞭であった。
流石に甚太郎も、この類のない清らかな姿には、とょつと手が出せなかった。
「おらも、こりゃ女子は初めてだわい・・・何と口説きようがねえぜ」
などと、頻りに持て扱つて居ると、ポッと屋根裏が明るくなった。慌てふためく礼子を手で抑えて、
甚太郎は羽目に身を寄せながら、そこらの節穴からじっと風呂場を覗き込んだ。
誰かが風呂場に入って来て、釜の下の灰を掻き立てたらしいのである。
「誰だい。今時分風呂にへえるなあ」
と、甚太郎は怒鳴った。
「あたしだよ。風邪気味だから寝しなにへえるべえと思って・・・
お前さんこそ、そんなところで何して居るんだね」
と言う、その声は甚太郎の女房だった。
「いんにや。おら、ねじ廻し探して居るだわ」
そのような会話に紛らせながら、甚太郎は少し宛納屋の戸を開けた。
礼子は裸足のままで逃げ出そうとする。その後から、草履を拾って、渡しながら、
わざと癇癪を起して、ドタバタと足踏みして、
「おめえ、駄目だな、物置をもう少し片付けて置けや、足の踏み場もねえぜ・・・」
「礼子さんにそう言うがいいわ」
痴呆でも虫が知らすか、際どい事を言うのだった。
「うん。よく言っとくべえ」
と、甚太郎は事もなげに言って、外に出て納屋の戸を閉めた。
その頃には礼子は既に暗闇の中に姿を消して居た。甚太郎の物慣れた動作は、
意外にも世評とは反対に、凡そその道には巧者であることを暴露して居た。
稲の刈入れが済むと、やがて秋祭りの頃となる。
春蕎麦の実る時、蕎麦切りを御馳走してやると言ったきり、とうとう違約してしまった、
村の弥五郎爺さんが、秋蕎麦はどうやら収穫が有ったそうで、或る晩増蔵を祭りの客に呼んで呉れた。
弥五郎爺さんは、時折逆上する癖があって、気違い爺さんと呼ばれ、村では誰にも相手にされず、
家族の者も恐れて近寄ることさえしなかった。それで爺さんは、朝から一人で粉をこね、蕎麦を打ち、
たれやかてまで作ったのである。
たれは蕎麦につける下地のつゆで、山鳩や若鶏の肉でだしをとって、甘辛くこってりと味をつける。
かては白菜やほうれん草の浸し物で、薬味は薬味で又別に、玉葱の刻んだものや唐辛子を用いる。
蕎麦には、たれを付けてかてを副え、更に薬味をふり掛けたりして食べるのであるが、
この辺りの農村のもてなしとしては、是に勝るご馳走はないのだった。
「増蔵さん。どうか、たんと召し上がっておくんなさい。春蕎麦は河原鶸(ひわ)にみんな食われ、
ろくに種子も取れねえような始末で、おら、まあ、えらく損しちまっただ。
それでも、秋はちっとべえよくとれたで、早速蕎麦打っただわ。存分食っておくんなさい」
と、弥五郎爺さんは言った。増蔵は炉べた窮屈そうに坐り直して、
「おじさん。遠慮なく御馳走になります」
と、箸をとり上げた。
「どうだ、美味かんべえ」
「いやぁ、本当に美味しい」
ごくごくごくと喉を下って行く滑らかな感触は、全く蕎麦好きには、堪えられない魅力であった。
主客はたった二人きりで、座って居る。がらんとした家の中には殆ど人の気配も無い。
家族は皆、別棟の方に住んで居り、母屋には爺さんが独りで威張って居るのだった。
自足自給の農家の事で、爺さんは独りで暮らして居ても、食う寝る事には困らないが、
仕立物だけはどうにもならない。そこで爺さんは仕立屋の増蔵と刎頚の交わりを結ぶに至ったのであるが、
針も通らない様な、継ぎ接ぎだらけの股引きなど持ち込まれるのには、増蔵も少々辟易して居た。
それでも疎開者を、祭りの客に呼んで呉れようと言うのは、村でもこの爺さん一人で有るから、
増蔵は有り難い事だと思った。
「さあさあ、たんと食いなよ。ビールが一本あるだぜ」
「わたしはどうも酒の方は・・・」
「酒じゃねえ。ビールだわい。馬のしょうべんだ。さあ、注いだぞ、まあ一杯呑みねえ」
大きなコップを当てがわれて、増蔵は目を瞑って一口呑んだが、ぶるぶると身震いして、
コップはそれなりに、又たれの丼を取り上げるのだった。
箸で掬った蕎麦の端を、ちらりとたれに浸して、するすると啜り込む。
「どうも、こっちの方がやっぱり私には美味い。
おじさん。いいたれだね。だしは山鳩かね」
「いんにや。アンゴラ兎だ」
「アンゴラ兎?」
増蔵は目を丸くした。アンゴラ兎と聞くと、急に蕎麦が喉につかえる様な気がした。
あの可愛い、ふさふさと毛を被った。バラ色の目の兎。
さらに世間では数を増やそうと大騒ぎして居る貴重な家畜を、何たる事か、
爺さんはもう潰してしまって居る。
- 疎開先の思い出
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プロフィール
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アヤメ草(万屋太郎)です。
演歌の作詞や官能小説書きを趣味とする、
今年72歳に成る“色ボケ爺さん”です。
何時も私のブログを見て頂き
有難う御座います。
私の別ブログ
“詩(うた)と小説で描く「愛の世界」”
も開設から八年目に入り、
多くの作品を公開してまいりました。
此処にはその中から選んだ
昭和時代の懐かしい「あの日あの頃」
の作品をまとめて見ました。
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