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異性への恋心を大切にして生きてきた昭和の時代を振り返ってみましょう。

思い出される昭和のあの日あの頃

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・利尻の淫乱女の半生。其の十四

◇巨根の権太(2)
利尻の女14-1
「待ってけれ、権太。こったら長いモノ、オラ駄目だ、オラ破けてしまウー・・・」
私は悲鳴を上げました。すると権太も自分のモノが尋常でないと承知していたのでしょう、
私を裏返しにして這わせると、今度は尻を抱えて本当に犬のようにつるんで来ました。

この格好で遣ると、親方モノでも奥までは届きませんので、
私は少し物足りない思いをするのですが、権太のモノは違います。
息苦しいくらいにスッポリト子宮の奥まで嵌って、それをそろそろと抜き差しされると、
胃袋の中までズボッ!ズボッ!と突き立てられるようです。
私は一突きされるごとに体が溶けていくよう様ないい気持ちで、
思わず悦がり声を上げていました。

「ああ、悦え、悦え。オラもう気がいくッー・・・。なァー、なァー、一緒に、一緒に・・・」
すると権太は、もっと私を歓ばせようと思ったのでしょう。片手を私の前へ伸ばして、
親方がいつもするように私のサネを弄り始めたのです。

私は目まいがして、気が狂いそうでした。
「止めれッ、そこば弄ったら駄目だ!オラ、死んでしまウーッ!」
そんな事を言っても、ここまで来たら男が許して呉れる筈が有りません。
今にも火が出るようにサネを擦られながら、大腰を使われると、
私はじきに気を遣ってしまいました。一度気を遣ると後は堪え性もなくイキっ放しで、
「殺してけれ!殺してけれ!」
と喚きながら、私はしまいに何がなんだか分からなくなってしまいました。

それでも、権太が気をやった時の事は覚えています。
急に権太が大人しくなったと思うと、私の子宮の中にまで嵌っている権太のヘノコの先が
ムクムクと膨れて、熱湯みたいに熱いものをドクッ!ドクッ!と弾き出して、
「ああ、孕む!」と私は思いました。しかもそれが一度ではないのです。
ああ、やっと終わったと安心していると、しばらくするとまたヘノコの先がピクッピクッと動いて、
思い出したようにドクッ!ドクッ!と子種を吐き出すのです。

おッ母ァ達の、権太とやれば抜けなくなると言うのは嘘でしたが、
何遍も気をやるというのは本当でした。そんなことが五、六遍も繰り返されて、
私はこれなら間違いなく孕まされたと観念しました。
それほど気持が快かったという事も有るでしょうが、その日がちょうど、親方の言う
私の孕みやすい日に当っていたと言う事も、私にそう思い込ませたのでしょう・・・。

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利尻の女14-2
私の勘は不運にも当っていました。翌月も、翌々月も月のものがありませんでした。
さすがに私は慌てました。
前の時はともかく、今度は相手が権太と分かっているだけに困りました。
いくら私でもまさか権太の子を産む気には成れません。

私はわざと柱に腹をぶっけたり、高い所から飛び降りたりして、腹の子を流そうとしました。
それでも駄目だとなると、誰から聞いたのか今は忘れましたが、
腹の子を下ろすのに効くというので、万咲(福寿草)の根を掘ってきて煎じて呑みました。

唇をつけただけでも痺れてしまうような辛いものでした。果たしてそれが本当に効いたか
どうかは分かりませんが、どうやら腹の子は流れました。その代り三日三晩腹痛みして、
吐いたり下痢したり、危なく死にそうなひどい目に遭いました。

この年の秋、建網の切り上げと一緒に、
ようやく達者になった伝三さん私は村を出る事にしました。

若い衆達はもちろん、親方も村の人もここへ住み着けと勧めてくれましたが、
こんな自堕落な暮らしを続けていたら、本当に泥沼に嵌った様に
抜けられなくなってしまうと、多分に未練はありましたが、
私は目を瞑る思い出村を出る決心をしたのです。

その冬はM町で、親方の世話をしてくれたカマボコ工場にやとわれ越年しました。
私達が村を出たのは大正14年の11月でした。
そして、それからまた、私と伝三さんの番屋暮らしがはじまったのでした。
◇エピローグ
利尻の女14-3
私はこの頃よく伝三さんの夢を見ます。伝三さんは若い頃そのままで、
養老園の中庭に立って「来い来い」と私を手招きするのですが、
私は年をとって手足があ不自由なものですから、いつもついて行けないのです。
でもそのうちにきっと伝三さんは、この部屋の中まで入って来て、
私を連れ出して呉れるだろうと私はそれを楽しみに待っているのです。

伝三さんは日高の佐瑠太という所の、建網漁場で働いている時、
海に嵌って亡くなりました。
夏の盛りでした。ちょうど台風が来て海が大時化になって、建網が流されると言うので、
新しい土俵を入れてつなぎ止める事に成りました。

石や砂の詰まった土俵を船の上から海の中へ投げ落とすと、土俵につけてある太綱が
まるで生きた蛇のように輪をかいて跳ねながら沈んでいくのですが、
凪の時でも身をかわすのは危険だそうですのに、大時化の最中で、
船が揺れて身をかわす暇がなかったのでしょう。伝三さんは、あッ!と言う間もなく、
船の上から海の中へ姿を消してしまったのだそうです。

ようやく時化がおさまって、それから三日目に伝三さんは冷たくなって
私の元へ帰って来ました。伝三さん31歳、私は26歳でした。

葬式は親方が町から坊さんを呼んで呉れて済ますと、砂浜に穴を掘って、
遺体を火葬にしました。私はまだ何処かに伝三さんが生きている様な気がして、
漁が切り上げになる十月末までそこの番屋で飯炊きを続けました。
日が暮れると「おッ母ァ、一人になって寂しいべ」と言って、番屋の若い衆が交替で
小屋へ泊まりに来てくれましたが、本当は私の体が狙いでした。
私は若い衆に好きな様にさせながら、ただ伝三さんの事ばかり思い出していました。

一人になった私は、伝三さんの遺骨を抱えて、北海道を転々と流れ歩きました。
それでも海の見えない山の中ばかり歩くようにしました。

勿論、女一人が世の中を流れ歩くには、遣る事は決まっています。
自分の体を切り売りすることでした。私は何時も女に生まれて来た我が身が
悲しいと嘆いたものですが、その頃は逆に、「女って、なんと便利なものだろう」と、
可笑しくなって一人笑いをしたものでした。

伝三さんの遺骨は、夕張の近くの小さな村の寺に預けたのですが、今もそのままです。
伝三さんは私を呼びに来て、あの寺へ連れて行くのでしょうか・・・。
もう何処でもいいのです。私は若い頃のように伝三さんに寄り添って、長い間の
一人きりの旅に萎えきったこの手足を思い切り伸ばして静かに眠りたいと思うのです。
(完)
  1. あの日あの頃
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アヤメ草

Author:アヤメ草
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アヤメ草(万屋太郎)です。
演歌の作詞や官能小説書きを趣味とする、
今年72歳に成る“色ボケ爺さん”です。
何時も私のブログを見て頂き
有難う御座います。

私の別ブログ
“詩(うた)と小説で描く「愛の世界」”
も開設から八年目に入り、
多くの作品を公開してまいりました。
此処にはその中から選んだ
昭和時代の懐かしい「あの日あの頃」
の作品をまとめて見ました。

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