忘れ得ぬ二人の女。其のニ
◇忘れ得ぬ二人の女
昭和35年。
私は銀座のある老舗靴店に勤めていた。少々事情があって、
志望していた美大を諦め、前年春に高卒で入社したのである。
入社約一年間は裏方、つまり商売と靴の基本を習うために、
仕入れや在庫管理の仕事を行う浅草の倉庫部で働いて、
やっと華やかな銀座本店に通い始めたころだった。
確か、早春。そう、店長が美大志望の私の稚拙なセンスを買ってくれて、
銀座通りに向けた宣伝垂れ幕を書かせてくれたバーゲン中だったから、二月の末。
外は寒い最中だが、二ヶ所の暖房の石油ストーブを消すほどの暑い混雑の中。
一人の接客を終えた私は、背後から小さな声で名を呼ばれて振り向いた。
「やっぱり、瀬川君だ・・・」
若く綺麗な、見知らぬ女性だった。私は一瞬キョトンとしたらしい。
その私の表情に、彼女の白い頬がプクッと膨れた。
「忘れちゃったの?私は、すぐに君が分かったのに!
渋谷の○○小学校の同級生の、横山千穂子よ!」
ワッ、と思った。小学校を卒業してミッション系の女学院に進学した千穂子。
淡い恋心をいだいていた少女は、信じられないほど変貌していた。
長い睫毛は同じでも、細い眼は切れ長に澄んで、色黒だった肌も白く、
頬もふくよか、瘠せてた四肢にも肉が付いていた。
「おどろいたよ。綺麗になったんで・・・」
「ばか、こんなに忙しいのに、お世辞なんかいらないわ!
それより、ねえ母の靴を選んで上げて。
混み過ぎて外に出ちゃったの、今連れてくるから、ね!」
身を翻して客の間を縫い、外に向かった千穂子が母親の手を引いて、すぐ戻ってきた。
確かに今の千穂子に似た上品な中年女性だった。小学校時代に会っていたら、
あまり似てない母親だと思ったかもしれないが・・・。
その日から、千穂子は店に客として現れるようになった。
もちろん母親と常に一緒だったが、自分の靴も私に任せて、
私の[お得意様]に成ってくれたのである。
五月十一日。それはハッキリ覚えている。忙しくなる夕刻前の休憩で裏に居た私が、
「横山様がお出でだよ」と、先輩に呼ばれて店に出ると、千穂子一人が待っていた。
笑顔の母親は外の通りに立っている。どうやら客として来店した訳ではないらしい。
何だろう、と内心首を捻った私の眼前に、
後ろ手に隠していた彼女の両手が差し出された。
「これ、今日、お誕生日でしょ!」
ぶっきらぼうな声で手渡されたのは、パンジーの小さな鉢植えだった。
礼を言う前に、私の顔は真っ赤になっただろう。声も小さかったに違いない。
たぶん、彼女の顔もまともには見てなかった。
じゃあ、と手を振って外に駆け出す千穂子の後ろ姿だけは、ぼんやり見送った。
その日は、先輩達や同僚に、絶対冷やかされた筈だ。
だが、私にはその後の記憶が無いのだ。
そのプレゼントの鉢植えを家に持ち帰った記憶も無い。
ただパンジーの花の色が、千穂子を想わせる、
青紫と白の可愛い二色だった事だけは覚えている。
秋になり、私に恋人ができた。
ある繁華街のテナントビルの二階に、各業種の有名店が集まる、
老舗商店街が形成されていた。私が勤める靴店も出店していて、
その夏の終わりの全館バーゲンの手伝いに狩り出された私は、
隣に並んでいた装飾ボタン店の女店員、増田澄子の美貌に、
一目で魅せられてしまったのである。
彼女は二十二歳。私より年上だが、
その大人っぽさにも惹かれたのかも知れない。当時としては大柄な女性で、
背丈は百七十四センチの私の肩の上に顔が出るくらい。
腕も太腿もムッチリと肉付きが良く、そんなグラマラスナな肢体によく似合う、
南米の娘のように情熱的な瞳の、闊達な女性だった。
その澄子は性格も開放的で、最初のデートは彼女の希望で渋谷のトリスバー。
そのバーで、カクテルよりも水割りかオンザロック。でも、本当に好きなのは、
日本酒の冷や、と言う彼女の酒の好みに驚かされた。実際、澄子は酒に強かった。
酔えば・・・と願う私の期待を裏切り、帰りに連れ込み旅館に誘う隙はもちろん、
キスを交わす状況さえも作ってくれなかった。
身持ちも堅く、夜の十一時が門限で、家まで歩いてすぐと言うが、
下北沢駅までしか送らせてくれない。その道中が私よりしっかりしているのだから、
どうにもならない。
そして、口惜しい事に、店の業種も場所も違う二人の休日は、
これまた私にはどうにもならず、重なる事がなかった。
私達のデートは閉店後の夜だけ。そして秋から冬。正月は過ぎても、
私と澄子の関係は、ただの酒飲み友達のままだった。
ただ、不思議な事に、これほどの美貌の彼女なのに、
私以外の男友達は居ないようだった。電話で誘えば必ず、
夜の澄子の時間は空いているのである。
春が来て、私は入社三年目を迎えた。
横山千穂子は相変わらず、来店してくれるが、何時も母親と一緒。
小学校の同級生、異性の親友関係のままだった。
初恋の相手だが、私は千穂子を恋愛対象にはしていなかった。
澄子に恋をし、それはまだ肉体関係までは進んでいなかったが、
その間に他の女性とも遊んで、性的欲望は果たせていた私なのだ。
青臭い恋を求めるほど、女性に飢えては居なかった。
そして、その春のある日の夜、私はついに澄子への願望を果たしたのである。
昭和35年。
私は銀座のある老舗靴店に勤めていた。少々事情があって、
志望していた美大を諦め、前年春に高卒で入社したのである。
入社約一年間は裏方、つまり商売と靴の基本を習うために、
仕入れや在庫管理の仕事を行う浅草の倉庫部で働いて、
やっと華やかな銀座本店に通い始めたころだった。
確か、早春。そう、店長が美大志望の私の稚拙なセンスを買ってくれて、
銀座通りに向けた宣伝垂れ幕を書かせてくれたバーゲン中だったから、二月の末。
外は寒い最中だが、二ヶ所の暖房の石油ストーブを消すほどの暑い混雑の中。
一人の接客を終えた私は、背後から小さな声で名を呼ばれて振り向いた。
「やっぱり、瀬川君だ・・・」
若く綺麗な、見知らぬ女性だった。私は一瞬キョトンとしたらしい。
その私の表情に、彼女の白い頬がプクッと膨れた。
「忘れちゃったの?私は、すぐに君が分かったのに!
渋谷の○○小学校の同級生の、横山千穂子よ!」
ワッ、と思った。小学校を卒業してミッション系の女学院に進学した千穂子。
淡い恋心をいだいていた少女は、信じられないほど変貌していた。
長い睫毛は同じでも、細い眼は切れ長に澄んで、色黒だった肌も白く、
頬もふくよか、瘠せてた四肢にも肉が付いていた。
「おどろいたよ。綺麗になったんで・・・」
「ばか、こんなに忙しいのに、お世辞なんかいらないわ!
それより、ねえ母の靴を選んで上げて。
混み過ぎて外に出ちゃったの、今連れてくるから、ね!」
身を翻して客の間を縫い、外に向かった千穂子が母親の手を引いて、すぐ戻ってきた。
確かに今の千穂子に似た上品な中年女性だった。小学校時代に会っていたら、
あまり似てない母親だと思ったかもしれないが・・・。
その日から、千穂子は店に客として現れるようになった。
もちろん母親と常に一緒だったが、自分の靴も私に任せて、
私の[お得意様]に成ってくれたのである。
五月十一日。それはハッキリ覚えている。忙しくなる夕刻前の休憩で裏に居た私が、
「横山様がお出でだよ」と、先輩に呼ばれて店に出ると、千穂子一人が待っていた。
笑顔の母親は外の通りに立っている。どうやら客として来店した訳ではないらしい。
何だろう、と内心首を捻った私の眼前に、
後ろ手に隠していた彼女の両手が差し出された。
「これ、今日、お誕生日でしょ!」
ぶっきらぼうな声で手渡されたのは、パンジーの小さな鉢植えだった。
礼を言う前に、私の顔は真っ赤になっただろう。声も小さかったに違いない。
たぶん、彼女の顔もまともには見てなかった。
じゃあ、と手を振って外に駆け出す千穂子の後ろ姿だけは、ぼんやり見送った。
その日は、先輩達や同僚に、絶対冷やかされた筈だ。
だが、私にはその後の記憶が無いのだ。
そのプレゼントの鉢植えを家に持ち帰った記憶も無い。
ただパンジーの花の色が、千穂子を想わせる、
青紫と白の可愛い二色だった事だけは覚えている。
秋になり、私に恋人ができた。
ある繁華街のテナントビルの二階に、各業種の有名店が集まる、
老舗商店街が形成されていた。私が勤める靴店も出店していて、
その夏の終わりの全館バーゲンの手伝いに狩り出された私は、
隣に並んでいた装飾ボタン店の女店員、増田澄子の美貌に、
一目で魅せられてしまったのである。
彼女は二十二歳。私より年上だが、
その大人っぽさにも惹かれたのかも知れない。当時としては大柄な女性で、
背丈は百七十四センチの私の肩の上に顔が出るくらい。
腕も太腿もムッチリと肉付きが良く、そんなグラマラスナな肢体によく似合う、
南米の娘のように情熱的な瞳の、闊達な女性だった。
その澄子は性格も開放的で、最初のデートは彼女の希望で渋谷のトリスバー。
そのバーで、カクテルよりも水割りかオンザロック。でも、本当に好きなのは、
日本酒の冷や、と言う彼女の酒の好みに驚かされた。実際、澄子は酒に強かった。
酔えば・・・と願う私の期待を裏切り、帰りに連れ込み旅館に誘う隙はもちろん、
キスを交わす状況さえも作ってくれなかった。
身持ちも堅く、夜の十一時が門限で、家まで歩いてすぐと言うが、
下北沢駅までしか送らせてくれない。その道中が私よりしっかりしているのだから、
どうにもならない。
そして、口惜しい事に、店の業種も場所も違う二人の休日は、
これまた私にはどうにもならず、重なる事がなかった。
私達のデートは閉店後の夜だけ。そして秋から冬。正月は過ぎても、
私と澄子の関係は、ただの酒飲み友達のままだった。
ただ、不思議な事に、これほどの美貌の彼女なのに、
私以外の男友達は居ないようだった。電話で誘えば必ず、
夜の澄子の時間は空いているのである。
春が来て、私は入社三年目を迎えた。
横山千穂子は相変わらず、来店してくれるが、何時も母親と一緒。
小学校の同級生、異性の親友関係のままだった。
初恋の相手だが、私は千穂子を恋愛対象にはしていなかった。
澄子に恋をし、それはまだ肉体関係までは進んでいなかったが、
その間に他の女性とも遊んで、性的欲望は果たせていた私なのだ。
青臭い恋を求めるほど、女性に飢えては居なかった。
そして、その春のある日の夜、私はついに澄子への願望を果たしたのである。
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プロフィール
Author:アヤメ草
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アヤメ草(万屋太郎)です。
演歌の作詞や官能小説書きを趣味とする、
今年72歳に成る“色ボケ爺さん”です。
何時も私のブログを見て頂き
有難う御座います。
私の別ブログ
“詩(うた)と小説で描く「愛の世界」”
も開設から八年目に入り、
多くの作品を公開してまいりました。
此処にはその中から選んだ
昭和時代の懐かしい「あの日あの頃」
の作品をまとめて見ました。
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