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異性への恋心を大切にして生きてきた昭和の時代を振り返ってみましょう。

思い出される昭和のあの日あの頃

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我が妻を語る。其の一

 
私は松永武人と申す今年78歳になる新潟県在住で自営業を営む男性です。
このサイトを知人に紹介して頂き、今は毎日愛読させて頂いております。
今日は4年前に他界した5歳年上の妻の事を書かせて頂きたいと筆をとりました。
話は「戦後を生きた姉と弟」と、同じ時代背景でございまして。
若い方にはピンと来ないかもしれません。が、戦中戦後を生き抜いて来られた、
私と同じ世代の方には判って貰えるかと思います。

◇戦死の公報◇
元売春婦の妻01
昭和7年12月。雪がしんしんと降る夜。私は新潟で生まれました。
父は広島の江田島海軍兵学校卒の、職業軍人だった。
其の父から、立派な武人になるようにと、「武人(たけひと)」という勇ましい
名前をつけてもらった、と母から聞いていた。

しかし私には父の関する思い出は殆どない。
勤務地が横須賀の海軍基地だったことと、駆逐艦に乗り組んでいたため、
休暇で新潟に帰って来るのは、一年に何度も無かったからだ。

父は家に帰ってくると、軍服から浴衣姿に着替え、縁側からボンヤリと
山並みを眺めているのが好きだったようだ。そして、その居心地のいい胡坐の上に、
いつも私は抱かれていたような気がする。

私が言うのもなんだけど、母はとても美しい人で、村の小学校に勤め、代用教員をしていた。
家から学校までは片道5キロほどの道程があったが、其の頃村に数台しかなかった
自転車に乗って、母は颯爽と通勤していた。真っ白なブラウスとスカート姿は、
村人の誰の目にも羨望を感じさせて居たと言う。

祖父はこれも厳格で寡黙な人であった。若い頃は村役場で収入役をしていた。
だが、祖母を病気で亡くしてからは、急に寡黙さに拍車がかかったという。
外に行くことも少なくなり、囲炉裏端の横座に座ったまま毎日、石の地蔵さんの様に
黙りこくっていることが多くなっていたそうだ。

私が9歳の時に、日本は太平洋戦争に突入した。真珠湾攻撃の勝利で、
日本中が狂喜して、新潟の片田舎でも連夜のように提灯行列が続いていた。
しかし、戦勝気分は長くは続かなかった。開戦から一年もしないうち、
連合艦隊がミッドウェイ海戦でで敗れたのを機に、日本は敗戦への悲劇の道を辿る。
もっとも、国民には全くそんな事実は報道されていなかった。

隣組の人々に見送られていく出征兵士と、白木の箱に入れられて帰って来る
英霊の数が増え、そして何よりも、食事が次第に貧しいものに変化していくことで、
戦況が悪い方向に向かっているのを、子供なりに腹で感じていた。

食事は配給が追いつかず、毎食芋がゆと野菜がわずかに浮いた味噌汁が中心になった。
米所の新潟でさえそうだから、都会の飢餓感は想像を遥かに超えたものだったろう。
“欲しがりません勝までは”
などと言うスローガンは飢えている者には、ただ空しく聞こえるばかりだった。
 
元売春婦の妻02
昭和20年初春、まだ寒い日のことだ。私は近所の悪友たちとフナを釣るために
沼で釣り糸を垂れていた。沼は小高い丘が波状に連なった所の中腹にあった。
そこに立つと広大な田圃と、点在する村の家々が見える。
子供たちの格好の遊び場ともなっていた。

「先生が来た」
坂井が釣り竿を放り出さんばかりに、驚いた声を出した。悪戯坊主でいつも叱られていて、
坂井は母が苦手だっようだ。家に遊びに来ると、借りてきた猫のように大人しいから、
それはよく分かった。坂井の視線の先を追うと、雑木林の中の小道を、
一生懸命に自転車を漕いで登って来る母の姿が見えた。

私の行動については、あまり干渉しない母が、釣などでわざわざ小言を言いに来るはずが無い。
祖父か父の身に、何か異変が起こったのだろう。
私は急いで竿を上げると、母に向かって駆け出していた。

「母さん、どうしたの」
不吉なものを予感し、声は喉にへばりついていた。
「武・・・落ち着いて聞いて、たった今、お父さんが戦死したって知らせがあったの」
「・・・!?」
「さあ、釣りをやめて、すぐかえりましょ」
母は冷静さを少しも失っていない。もうとっくにその覚悟だけはしていたのだろう。
ただ母の冷静な声のみが頭の中に反響し、私は何だか遠い世界の出来事のような気がして、
母から離れて竿の置いてあった所に戻ると、ボンヤリとそれを片付け始めた。

「先生、何だって・・・もう帰るのか?これからがいい所なのに」
何も知らない坂井は、好奇心に目を輝かせて、母には聞こえないように小声で呟いた。
「ああ、帰る・・・これ持ってけ」
私はビクに入っていたフナを、坂井のビクに手掴みで移し替えた。
「なんだい、これいらないのか?夕飯のお菜になるのに・・・本当にいいのか?」
「ああ、全部持っていってくれ」
「変な奴だ。いつもはこんなこと絶対にないのに・・・」
「父さんが戦死したんだ」
「えっ・・・それじゃ英霊になったのか」
坂井は感心した様に言った。

その頃、英霊という言葉は事も達の間でも日常的に盛んに使われていた。
軍人になってお国のために存分戦って戦士するのは、それだけで名誉な事だとされていた。
学校でもそうした教育をされたし、木製の模擬銃を使って軍事訓練も受け、
将来は軍人になるのだと誰もがおもいこんでいた時代だった。
元売春婦の妻03
私は自転車を押していく母の後ろについて行った。母はずっと無言だった。
父は本当に死んでしまったのか。実感が中々沸いてこない。最後に会ったのは、
開戦になる直前の事だったが、どんな話をして別れたのか、それすらもはっきりと
思い出せない。戦死して英霊になることが名誉だと、誰が言い出したのか。
片腕や片足がもげてもいい、どんな姿になっても、帰ってきて欲しい。と思った。

家に着くと隣組の人たちが集まって、早くも祖父と葬儀の相談をしていた。
父は戦死して、二階級特進して中佐になったのだという。新潟では各村を探しても、
大将になった山本五十六を除けば、佐官まで出世した人は稀だから村葬が相応しいと、
村長などはわがごとのように名誉だと思い喜んでいる。

実際に父はその通りに村葬で送られたのだが村人の浮き足立った騒ぎをよそに、
私はひどい虚無感の中、仏壇に飾られた父の遺影を食い入るように見つめていた。
葬儀の間、祖父も母も涙一つ見せず、気丈に立ち振る舞っていた。
戦死を告げる電報いちまいだけで、亡骸の骨一片すらない。
恐らく私と同じように、父の戦死を実感として捕らえきれななかったろう。
英霊となった軍人の父と妻を、二人は見事に演じきっていた。

父が死んでも何も変わらなかった。
生きることに精一杯で、悲しんでいる余裕がないと言うのが現実だった。
十軒の家があれば、半数近くの家が同じような境遇で、
村葬があったことなど直ぐに忘れられた。

そして敗戦。その年、私は13歳になっていた。
これで以前のような、静かな生活に戻れると内心ホッとしたが、
そんな思いとは裏腹に戦時中よりも、もっともっとひどい生活がそこには待っていた。

母の元に、父の戦友だったと名乗る男が訪ねて来たのは、戦後まもなくのことだった。
男は父と同じ駆逐艦に乗っていて、撃沈されたのだが、運良く救助されて、
その頃激戦地になると予想された硫黄島に助かった父達と共に転進命令を受けたのだと言う。

船乗りが陸に上がって戦うのは、子供が大人に挑むのとおなじことで、
米軍が上陸して間もなく、父の部隊は数人を残して全滅してしまった。
父は自分の軍服をボロボロになった部下に分け与えた後、褌姿で敵の機関銃陣地に
向かって切り込みをかけ、壮絶な最後を遂げたのだと、男は涙ながらに語ってくれた。

  1. 妻を語る
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アヤメ草

Author:アヤメ草
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アヤメ草(万屋太郎)です。
演歌の作詞や官能小説書きを趣味とする、
今年72歳に成る“色ボケ爺さん”です。
何時も私のブログを見て頂き
有難う御座います。

私の別ブログ
“詩(うた)と小説で描く「愛の世界」”
も開設から八年目に入り、
多くの作品を公開してまいりました。
此処にはその中から選んだ
昭和時代の懐かしい「あの日あの頃」
の作品をまとめて見ました。

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