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異性への恋心を大切にして生きてきた昭和の時代を振り返ってみましょう。

思い出される昭和のあの日あの頃

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戦後を生きた姉と弟。其の二

◇生きていく為に
戦後を生きた姉と弟04
姉が客を取る時は私は何時も外に追いやられるのだが、そんな時は子供心に悲しい
思いをしていた。姉は明らかに焦っていた。近所には同じようなパンパンが大勢居たが、
身軽な独り者の処にはいつの間にか見知らぬ男が住み着くようになったり、
化粧や服に金をかけてカッコ良くなったりしたが、姉には私が居るお陰で、ヒモになる男を
こしらえる事も出来ず、私に食い扶持を割かれるので、化粧品や服装に回せる
金も無かった。家の中の道具の新しいのも増えるではなく、ただ食って行くのだけで
精一杯の状態だった。商売に欠かせない布団も敷きっ放しのセンベイ布団で、
これが姉には一番のハンディであったようだ。

「汚い足で布団の上を歩くな!」
私がうっかり布団の上を歩いたりすると、姉は大声で怒鳴った。
夜は二人で一つ布団に寝ているのだが、姉は私が寝汗をかいても怒るように成っていた。

「臭いなぁ、この布団は・・・」
いつか、客の男の一人がこう言っているのが聞えた。姉が謝っていた。
「いったいこの布団、日に干したことがあるのか、オマンコばっかりしていて、 この布団、
 お日さま拝んだこと、ないのと違うか。オマンコ汁吸いすぎて臭いぞ。半額、半額だぁ」
姉がメザシを外で焼くようになったのも、私が布団の上を歩くと目くじら立てて怒鳴る
様に成ったのも、その後のことであった。

近くのパンパンのお姉さんの家を覗いた事がある。バラックのくせに、布団はホカホカで、
ピカピカ光った布で出来ているし、部屋にはピンクのカーテンがかかっている。
部屋の隅には鏡台の小さいのが置いてあって、色んな化粧品が並んでいたし、
部屋中が女の匂いに満ちていた。私の姉の商売をする場所とは大違いである。
姉がヒステリーをおこすのも無理なかった。

一度部屋の壁に、学校で描いた図画を貼った事があった。先生にベタ褒めされたので、
多分姉も褒めてくれると思ったし、殺風景な部屋にも色気が付くと思ったからであった。
「バカ、こんなもんン貼って」
姉は風景画を破って捨ててしまった。そう言えば、ヨソのパンパン連中は、
原節子の写真を貼ったり、アメリカの映画俳優のプロマイドを飾ったりしていた。
姉の客が、徐々に金払いの悪い下品な連中ばかりに成るのも無理はなかった。

そして気が付くと、私は小学校の6年生を終わろうとしていたし、
姉の方は20代の峠に差し掛かっていた。
 
戦後を生きた姉と弟05
(旧国鉄高島貨物駅にも顔を出していたSL)
そんな或る日、また私は外へ追い出されたのである。もちろん男が来たからである。
姉は相変わらずのピンクと、今度はもっとどぎつい真っ赤なスリップを手に入れていたので、
其の頃は殆どそれを着ていた。姉はさっさと服を脱ぎながら、
「分かってるね」
と、真っ赤なスリップ姿に成りながらそう言って私に目配せした。
私に二時間ばかし外へ行ってこい、と言うのである。

以前は、モモ色のスリップ姿でバラックの周りを歩き回って、
近所の男さえ引掛けてしまおうと言うほど商売熱心な姉だったので、
隣近所の連中は、姉のことを「モモいろ姉ちゃん」と呼んでいたが、
其の頃は「日の丸姉ちゃん」と呼ばれていた。
しかし、私の渾名だけは「モモイロぼうず」のままであった。

「おい、モモイロぼうず。姉ちゃんは相変わらずオマンコに励んでるか」
近所の大人にからかわれながらも、正直に「うん」と、
得意になって答えていたのだから、今思い出しても我ながらバカである。

私は中学へ行く年になったが、学校へは行かなかった。自分も仕事をして姉を
助けなければ成らないと考えたからである。しかし中学は義務教育だからと、
学校の先生が姉を説得しに来たりしたので、しぶしぶと学校へ行くには行ったが
殆ど欠席生徒のままであった。

ただし、仕事と言っても世間では雇って呉れる処はなく、近所に住んでいた国鉄職員の
佐藤さんと言う小母さんが、当時横浜駅と桜木町駅の中間(今のみなとみらい地区)
に有った高島貨物駅の構内に国鉄職員専用の購買部が有り、薪や木炭、米や雑穀、
など、今で言うスーパーの様な売店があり、一般の店より格安で買えた。

佐藤の小母さんは近所の主婦から注文を取り、それらを売り買いして僅かな
利ざやを稼いでいたのだ。そしてその運搬にリヤカーを使っていたので、
私はそれを手伝って幾らかの小遣い(五円とか十円だった)を貰っていた。
それが無い時は、アカ拾い(銅や真鍮拾い)や磁石を引きずって、釘や鉄くずを集めて、
屑屋に持ち込んで金に換えたりしていたのである。

日が暮れて来ると近くの私鉄駅の近くに立って姉の手助けに成ればと思い、
簡単に言えば「ポン引き」の真似事をした。
「おじさん!、若い女とオマンコしたくないかい?」
こういって、誰彼なしにソデを引いてくるのである。
戦後を生きた姉と弟06
「バッキャロー。ガキのケッに入れるほど飢えちゃいるえよ」
そう言って何度か怒鳴られたが、時々は客をひけた。しかし、姉は喜ばなかった。
「バカだね、自分の姉の体売る弟がどこにいるかね」
言われて見ればもっともであった。しかし、アカ拾いや佐藤さんの手伝い程度の
稼ぎではしれていたので話しにならなかった。

「それならサ、ヨソの姉ちゃんの客なら、平気な訳だよな」
中学に成り立てと言うのに、姉のシガレットケースから煙草をくすねて
一人前にふかしながら、真面目な気分で姉に相談したのである。
「バカ・・・」やはり姉は同じように私を怒鳴りつけた。
「まだ子供のクセして何言ってんだい」
しかし私は、自分が子供だとは思っていなかったのである。
「男と女がナニするのか、も知りもしない子供が口出しするんじゃないよ」

言われて見れば尤もであった。しかし、ホンモノを知らないだけで、
男と女が二人でオマンコをすること、男が女のオマンコにチンポを入れて
イイ気持ちになること・・・そんなことは、とっくの昔に知っていた。
ただ、自分はまだその年に成っていないと思い込んで居ただけなのであった。

「そんなら、姉ちゃんが教えて呉れれば良いんじゃねぇか」
「バカだねぇ弟にこんな事教える姉がどこにいるか」
何かというと、バカッを連発するように成っていた姉に、
私の方も負けないくらい品は悪くなっていた。

「ケチ・・・タダで乗られるのがそんなにイヤか、しみったれ」
姉の顔がカーッと紅潮したのである。
「なにヌカすか、このガキ」
「ケチ、ケチ、どケチ・・・自分の弟ぐらい、タダで乗せたって良いじゃねぇか。
 弟のチンポぐらい、入れさせてくれたっていいじゃねぇかよぉ。今までに百本や二百本は
 入れて来たオマンコだと言うのによ、この弟のチンポは入れられねえちゅうことかぁ」,

我ながら、とても中学生に成り立ての子供の台詞とは思えなかったが、
行きがかり上仕方がなかった。それに、そんなことがごく当たり前のご近所だったのである。
まことに子供の発育の環境というものは恐ろしい。
  1. 姉弟相姦
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アヤメ草

Author:アヤメ草
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アヤメ草(万屋太郎)です。
演歌の作詞や官能小説書きを趣味とする、
今年72歳に成る“色ボケ爺さん”です。
何時も私のブログを見て頂き
有難う御座います。

私の別ブログ
“詩(うた)と小説で描く「愛の世界」”
も開設から八年目に入り、
多くの作品を公開してまいりました。
此処にはその中から選んだ
昭和時代の懐かしい「あの日あの頃」
の作品をまとめて見ました。

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