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異性への恋心を大切にして生きてきた昭和の時代を振り返ってみましょう。

思い出される昭和のあの日あの頃

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「異国の丘」を聞くたびに。其の六

異国の丘を聞くたびに6-1
夏休みに成ると姉が帰って来た。春休みに見た時よりずっと
大人っぽくなり、綺麗な女に変身していた。また二階の部屋で舐め合ったり、
挿入したりして本式なオマンコが出来ると期待していた。

「美恵子は下であたしの蚊帳で寝るかんな。しばらくはご無沙汰だけど、我慢しろ」
母に言い渡されてむっとしたが、姉とオマンコがしたいなんて言う訳にもいかず
我慢の日が始まった。ニ、三日して、遊びから帰ると姉の姿が見えなかった。

「姉ちゃんどこへ行ったん?」
「東京へ帰ったよ」
母は疲れたような顔をして元気がなかった。

「なあ、母ちゃん。何かあったんか」
「うん。あたしが怪しいと思ってた通りだったよ」
「ええっ。美恵子と叔父さんと?」
「ああ。オマンコする仲になってた。それももう何年もだとさ」
「いいじゃねえか。それで・・・」
「あたしが秀夫と縁を切って家に帰って来いって言ったら、
 彼と別れられないって、少し文句を言ったら、すっ飛んで帰ったよ」

母はしょんぼりしていた。子供を教育する立場の自分が母子相姦の常習者で、
ふしだらな娘に注意する資格がないと思い込んでしまったらしい。

現代ならもっと違った結果に成っていたろうが、当時はまだ論理観は古いもので、
生活全体に決まりや常識に縛られていた時代だった。
母の心中を察すると気の毒に成る。
目から大粒の涙が溢れていた。

「雅人。今夜から別に寝べえ。はあ、あたしは嫌だ。何もかもが嫌になっちゃった」
畳に腹這いになって泣いている母の尻の線に勃起していた。

「なあ、母ちゃん。そんなこと気にするなよ。俺たちはずっと仲良くしよう」
慰めても駄目だった。取り返しのつかない罪を犯していた事に気が付いた。
もう私もガキではなくなって居たのだ。

そして、その夜から別々に寝る事に成った。暑い夏は虚ろに過ぎて、
母は淫らな誘いには乗らなくなってしまった。

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異国の丘を聞くたびに6-2
八月にシベリヤ帰りの兵隊がNHKのど自慢素人演芸会で「異国の丘」という
歌を歌って感動を巻き起こし、特に私の家のようにシベリヤに抑留されている
者の家庭では、なお更帰らぬ人に思いを寄せる事に成った。
母はラジオで頻繁にかかるその歌を口ずさみながら涙を流していた。
母に仕事の疲れだけではない疲れが見えていた。

何処の家でも戦死以外の男は帰っていて、何らかの仕事にありついて
妻はほっと一息ついて、世間並みの幸せな暮らしが戻ってきて居たのだ。
なのに我が家は何時まで経っても父の消息は知れず、母の父を待つ
女としての操を立てることに限界が来ていたのだ。

九月半ばに去年と同じ様な台風が来て、雨風が吹き荒れた。
我が家の母屋はガッチリとした瓦屋根の家だったから心配は無かった。
しかし、庭の物置小屋は吹き倒されて滅茶苦茶に成っていた。

流石に恐くなった母は私の寝床に来て、私にしがみついて台風の去るのを
冷や汗をかいてじっと待っていた。
異国の丘を聞くたびに6-3
嵐に怯えながらも二人は何時の間にか、
二ヶ月前の様に口を吸いあい相手の身体を弄っていた。
私は母のオマンコに指を突っ込みゆっくりゆっくりかき回した。
母は私の勃起したマラを引っ張り出していとおしむ楊に扱いてくれる。

全裸に成った二人は嵐の事など忘れて、
我慢に我慢を重ねていた性交をいとも簡単に再開していた。
「雅人。したかった。母ちゃんお前としたかったよ」
「おれだって、おれだって・・・」
汗と涙に濡れながら性器を深く交えながら快感に酔っていた。

「父ちゃんを待つのも疲れたよ。父ちゃんと別れても、
 あたしはお前とオマンコして毎日暮らしたい。お前とは離れられない」
「俺だって、母ちゃんと死ぬまで一緒に居たいよ」

台風が去り、その被害の大きさに母は立ち直れそうに無かった。
私は学校から帰ってくると、壊れた物置小屋の復旧に取り掛かった。
と言っても瓦礫を片付けて更地にした所に中古のプレハブ小屋の
資材を買ってきて組み立てたのだ。
その時の資金は東京の秀夫叔父さんが出して呉れた。

昭和36年で引揚げ船は終了し、父の戸籍も抹消された。

私は地元の高等学校を卒業すると直ぐに小型自動車の免許を取った。
16歳の時には原付免許や小型特殊免許をとって耕運機を操りながら、
農作業に精をだし母を助けていたのであるが、そんな折も何かと経済的な
支援をしてくれたのが東京で暮らす、秀夫叔父さんと私の姉だった。

その頃に成ると、私は母を「母ちゃん」とは呼ばず「おっかぁ」と呼んで、
傍目からは夫婦の様に見られていた。18歳の老け顔の若い亭主と、
40歳にしては背も低く童顔で若く見えるおっかぁは、夜に成ると本当の夫婦の様に、
一緒に風呂に入り、一つの布団に寝て、セックスをしていた。
異国の丘を聞くたびに6-4
車の免許も取り中古のダットサンを買った私の行動範囲は、俄かに広がった。
親戚に預けてあった田畑も少しずつ取り戻し、収穫野菜を市場に出荷するまでになっていた。

昭和37年には東京の秋葉原に行って「テレビキット」を買ってきて、自作のテレビを作り
おっかさんにプレゼントした。我が家がメーカー物のテレビを買ったのはその5年後 で、
カラーテレビであったが、その間自作の白黒テレビはおっかさんにとっては唯一の娯楽であった。

その白黒テレビを見ていた母が悲鳴に近い声をあげて叫んだ。
「父ちゃんだ!父ちゃんだよ!父ちゃんが生きていたんだよ!」
それは公共放送の旧満州国を訪ねるドキュメンタリー番組だった。
ある地方の農家をレポートしたそのTV画面に映っているのは父だと言うのだ。
私には父の記憶は無かったので母の言う事に直ぐには反応出来なかったが、
母は確かに父親だという。

画面に写る農夫は見るからに中国人の農夫にしか見えなかったが、
レポーターのアナウンスでは終戦のどさくさの中で元日本兵と思われる重症を負い、
記憶を無くし行き倒れになっていた男は、彼を救って呉れた農夫一家の家に住み付き、
其処の娘と結婚し四人の子供が居るという。

母は泣きながらその画面に見入っていた。

私は母に急かされるままにNHKに手紙を送った。そして数日後担当デレクターから
返事が来た。それによると、あの番組を見た全国の視聴者から、
「私の夫ではないか。私の父では、兄弟では」と言う問い合わせが100通以上来ていると言う。
今更にあの戦争に寄って身内を無くし、今でも捜し求めている人が沢山居る事を知った。

そして数ヶ月に及ぶ個人を特定する写真や品物を中国に送り彼の人に見てもらい、
記憶を取り戻す作業を続けて貰ったが、私の父親で有る事は否定されたようだった。

母はガッカリしたと同時に諦めが付いたとも言っていた。
夫の生存が絶望的に成った母の心と身体を癒すのは私の魔羅でしかなかった。

昭和41年私が23歳の時に高校時代からの恋仲であった雅恵と結婚し、
10年以上も続いた私と母の母子相姦も終ったが、翌年に生まれた孫を溺愛する母を見るにつけ、
私と祖母との事が思い出されて、歴史は繰り返されるのでは、と思ったものである。
END
  1. 上州女の性と愛
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プロフィール

アヤメ草

Author:アヤメ草
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アヤメ草(万屋太郎)です。
演歌の作詞や官能小説書きを趣味とする、
今年72歳に成る“色ボケ爺さん”です。
何時も私のブログを見て頂き
有難う御座います。

私の別ブログ
“詩(うた)と小説で描く「愛の世界」”
も開設から八年目に入り、
多くの作品を公開してまいりました。
此処にはその中から選んだ
昭和時代の懐かしい「あの日あの頃」
の作品をまとめて見ました。

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