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異性への恋心を大切にして生きてきた昭和の時代を振り返ってみましょう。

思い出される昭和のあの日あの頃

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・利尻の淫乱女の半生。其の六

◇私の結婚(1)
利尻の女06-1
ところで、私がこんなに長々と母親の浅ましい話をしたのは、
母親を軽蔑しているからでは有りません。
第一そういう私自身が、母親と同じように、いいえ、母親よりもっとあ浅ましく
自堕落な暮らしをしてきたのですから、その私に母親をとやかく言う資格もありませんし、
またその気も私にはありません。つまり私が母親の浅ましい姿を語る事は、
それは私自身の浅ましさを白状していることなのです。

母親の話はまだまだきりがないほど沢山ありますが、正直に言うと、
母親の姿と私自身の浅ましい姿とが重なり合って、
今では区別も付かなくなったというのが本音なのです。

初潮が有ったと言っても、十四、五歳までの私は鶴のように痩せこけて、
色気の無い小娘でした。それが十六の頃から、自分でもビックリするぐらいの早さで、
女の体になっていきました。股座の大事な所もふっくらと盛り上がり、
いくらか他人よりは薄めですが柔らかい毛も生え揃いました。
お乳も母親に負けないほどに前へ突き出して、胴が細く、その分だけ腰周りが大きく、
一緒に風呂に這入ると、
「テルよ、おめえ急に大人になったなアー」と、母親も驚くほどでした。

きつと母親が、若い衆や父親とつるむのを見せ付けられて居る内に、
遅れていた体の方も色気づいて、一辺に成長したのだと思います。

自分でこんな事を言うのは変ですが、若い頃の私は母親に似て、肌が色白で餅肌で、
顔が卵形で目が切れ長で、口唇が厚ぽったくて少しめくれ加減で、
美人では有りませんが男好きのする可愛い女でした。ですから番屋の若い衆や
漁師部落の若い衆や、時には親方さんまで、「新鉢ば割らせてけれ」と追い回されて、
二、三度、危うく手籠めにされそうになったこともあります。
父親は心配して、寝る時もモンペを穿いて寝れと、よく言っていたものでした。

その私にも、十七の春に好きな人が出来ました。
あれは函館に行く途中に「森」という町がありますが、
その町に近い建網番屋に働いていた時でした。
相手は「佐渡の伝三」さんと言う若い衆で、
体は大きくありませんが背のすらりとした、無口で大人しい人で、
その日暮の渡り漁師とはとても見えない、町場風の若い衆でした。

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利尻の女06-2
歳は私より五つ上でしたから、その時は二十二歳でした。目の綺麗な人で、
初めて会った時じーっと見詰られて、私は体が痺れて動けませんでしたが、
結局あの目に私は惚れたんだと思います。

私と伝三さんは、じきに人目を忍ぶ仲になってしまいました。
日が暮れると二人で浜へ下りて、砂の上に腰を下ろして身の上話を語り合ったりしました。

伝三さんは、元々は東京の下町の生まれで、十歳の時に両親に死なれ、
佐渡の縁者に引き取られて育てられたのですが、余りにも厄介者扱いされるので、
十八の歳に飛び出したのだそうです。それから散々内地を流れ歩いた末に
渡り漁師に成って北海道へ渡ってきたのだとか・・・。
私はその話を聞いて、良かれ悪しかれ両親と一緒の自分と引き比べ、
一人きりの伝三さんが可哀想で、しっかり抱いてやりたいと思いました。

そう言えば今気が付いたのですが、伝三さんは内地の人だけに喋る言葉は内地弁で、
私と一緒になってから北海道弁を真似しょうと努力していたようですが、
こればっかしはとうとう一生上手には成れませんでした。そして逆にその伝三さんから私は、
「オマンコ」という内地の俗語を教えて貰いました。

北海道弁では「つるむ」ことと「女の性器」とは区別していいますが、
内地では「オマンコ」とか「オマンコする」とか言って区別が無いようです。

この頃では北海道の人もみんな内地風になったようで「オマンコ」と言えば
恥ずかしがりますが「ヘッペ」とか「ダンベ」とか言っても、たいがいの人は聞きなれない
外国語でも聞くように、不思議そうな顔をするだけです。
どうやら北海道弁なぞも、私達年寄りと一緒にあの世へ消えて行ってしまうのでしょう。

それでは是からの話は、北海道弁を止めて、なるべく内地弁を使う様にします。
その方が読者の皆様方にも良く分かって貰えると思うのです。

その年の暮れは、私達親子と一緒に、伝三さんもそこの番屋に居残る事に成りました。
普通、建網の漁期は三月から十月一杯で、時化てくる十月の末に網を上げて、
「切り上げ」にするのが決まりでした。
「切り上げ」になると、漁師の間の総水揚げで若い衆に歩合金が渡されます。
私の記憶では元手(網や船)はもちろん、食う事と住む事(番屋)は親方持ちですから、
揚がりの六分は親方、残りの四分が若い衆の取り分だったと思います。
ですから、大漁の年は若い衆も上機嫌でしたが、
不漁の年はションボリしていたものでした。
  1. あの日あの頃
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アヤメ草

Author:アヤメ草
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アヤメ草(万屋太郎)です。
演歌の作詞や官能小説書きを趣味とする、
今年72歳に成る“色ボケ爺さん”です。
何時も私のブログを見て頂き
有難う御座います。

私の別ブログ
“詩(うた)と小説で描く「愛の世界」”
も開設から八年目に入り、
多くの作品を公開してまいりました。
此処にはその中から選んだ
昭和時代の懐かしい「あの日あの頃」
の作品をまとめて見ました。

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