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異性への恋心を大切にして生きてきた昭和の時代を振り返ってみましょう。

思い出される昭和のあの日あの頃

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赤い糸で結ばれていた70年。其の一

◇卵で元気つけて!
赤い糸で結ばれていた01
戦後間もない頃、世の中誰しもが貧乏で、其の日の食う物にも四苦八苦していた時代の事です。
私の実家は戦前から豆腐屋を営んでおり、運良く戦後すぐに再開する事が出来たのですが、
父は根っからの博打好きとあって、店の金を持ち出しては、
おいちょかぶや花札などにつぎ込んでいました。

いつも勝っていればいいのですが、これがヘタな横好きと言いましょうか、
負けてばかりいます。しかもムキになるタイプで、負ければそれを取り戻そうとするので、
余計に借金が借金を呼び、まさに泥沼状態といっても良い位でした。
働き者の母お蔭で、店そのものはそれなりに繁盛していたのですが、
生活は貧困から中々抜け出す事が出来ませんでした。

私は小さい時から水泳が大好きで、中学校でも水泳は得意中の得意でした。
級友たちからも「将来の古川勝だ」とよく囃し立てられていたのです。
赤い糸で結ばれていた02
ーー古川 勝(ふるかわ まさる, 1936年1月6日 - 1993年11月21日)は、
和歌山県橋本町(現・橋本市)出身の水泳選手。
ベルリンオリンピック優勝の前畑秀子とは同じ町内の出身。
幼い頃から紀ノ川で水に親しみ、高校生頃から頭角を現す。
前畑の薦めにより、平泳ぎに専念するようになった。
ヘルシンキオリンピックには派遣されなかったが、同じ年に行なわれた全日本選手権で、
ヘルシンキオリンピック第2位を上回る記録を出す。
その後、日本大学に進学し、水泳部に所属。
同部OBだった葉室鐵夫(ベルリンオリンピック男子200m平泳ぎ金メダリスト)から、
世界に勝つために潜水泳法を身につけるようアドバイスを受け、
古川は潜水のトレーニングを重ねる。
肺活量が6000cc以上あった古川の潜水は実に45mにも及ぶものであった
(他の選手は20m程度)。これにより古川は世界の第一人者となる。
2年生の1955年には200mで世界記録を樹立した。
1956年に開催された第16回大会メルボルンオリンピックの200メートル平泳ぎに出場。
得意の潜水の威力を発揮し、金メダルを獲得する。
しかしこの直後、国際水泳連盟はルールを改正し、
スタート直後とゴール前のひと掻きを除いて平泳ぎでの潜水を禁止し、
古川は潜水泳法で優勝した最後のスイマーになった。
1993年に、紫綬褒章を拝受。同年11月21日、肺ガンのため57歳で死去した。ーー

 
赤い糸で結ばれていた03
しかし、いかんせん家が貧しいため、食う物もまともに食えず、
たらふく食えると言えば商売物の豆腐とおから、だけでしたから、
一週間続けて夕食が豆腐とおからだったこともざらにありました。

豆腐やおからは確かに栄養価の高い食品ですが、
育ち盛りの肉体には少しモノ足りません。
筋肉は全くと言って良いくらい付いてくれず、もともと細い私の体は、
当時、肋骨が浮き出て見えるほど痩せていました。
事業中にフラフラッとすることも屡あり、
保健室で寝込む事も何度かありました。

そんな状態の中、クラス対抗の水泳大会が開催される事になり、
クラス全員一致で私が代表に選出されたのですが、
其の時は例の豆腐だけの夕食が続いていた時で、
プールで練習をしていても、どうにも力が入りません。

友人は「調子が悪いのか」と気遣ってくれますが、勿論本当のことは言えません。
笑って「大丈夫だよ」と言うのが精一杯でした。

ところが水泳大会の前日の事、学校からの帰り道、家路を急いでいると、
後ろから私を呼ぶ声がしました。振り返ってみると、ポニーテールの女の子で、
よくよく見ると同級生の弥生でした。しかし、私を呼んだと言うことは用事が
あるという言う事で、だったら走って来れば良さそうな物なのに、
彼女はやけにゆっくりと歩いて来るのです。

それでも漸く私の前に来たと思ったら、
弥生はカバンから新聞紙の包みを取り出しました。
新聞紙をめくってみると、中からコロコロとした卵が三つ出てきたのです。
産みたてなのか、所々に藁なんかがついています。

「えっ、卵?」瞬間的には彼女の真意がわかりませんでした。
しかし、次の行動ですべてを理解する事が出来たのです。
弥生は少し恥ずかしそうに卵を私の手に乗せるとこう言いました。
「明日、水泳大会でしょ。スタミナつけなきゃ」
「俺に、くれるのか」
「うん、元気つけて一等になって・・・」
赤い糸で結ばれていた06
弥生は幼馴染で、家も近く、就学前はよく二人で遊んだものです。
ママゴトやお医者さんごっこもしました。
しかし、小学校の高学年になり異性を意識する様になると、
是までがウソの様にばったりと遊ばなくなり、
道で会っても会釈をする程度になってしまいました。

中学一年生のときに、一緒のクラスに成ったのですが、
それでも二人が親密になると言う事はありませんでした。
登下校もバラバラです。しかし、彼女は私の家の状態を知っていたのです。
だからこそ、飼っている鶏が産んだ卵を、親に内緒で持って来て呉れたのです。

卵は有難く頂戴しましたけれど家に持って帰ると、
父親に横取りされる恐れがあります。
そこで、私はその場で卵三つを丸呑みしてしまいました。
弥生はそんな行為を見つめたままケラケラと笑っていました。

そのことがキッカケで、私たちの仲は再び急接近するようになりました。
昔のように二人で本を読んだり、ボール投げなどして遊ぶようになり、
とくに付き合って欲しい口にした訳ではありませんが、半年ほどした頃には、
お互いを恋人として意識するまでになっていました。

ちなみに優勝したのは、町内でも有名な金持ちの草間という嫌なヤツでした。
こいつは以前から金持ちをいい事に、弥生に色々と貢ぎ物をしていたと言うのです。
いわば恋敵です。もっとも、弥生は草間などには見向きもしませんでしたが、
金持ちを鼻に掛けているのが、ムカついて何とも気に食わないという事でした。

昔は今の様に大っぴらに男女が交際することは憚られ、
とくにクラスの者にでも知られたら一大事です。
ですから、私たちは毎日のように人目を避けて密会していました。
デートの場所は、ほとんど裏山でした。

それにしても、世の中随分と変わって来たものです。
公衆に面前で平気で接吻をする若者もいるんですから、
見ている此方の方が恥ずかしくなってしまいます。
しかし、心のどこかでは羨ましかったりしているのですから、複雑です。

  1. 夫婦の今と昔
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アヤメ草

Author:アヤメ草
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アヤメ草(万屋太郎)です。
演歌の作詞や官能小説書きを趣味とする、
今年72歳に成る“色ボケ爺さん”です。
何時も私のブログを見て頂き
有難う御座います。

私の別ブログ
“詩(うた)と小説で描く「愛の世界」”
も開設から八年目に入り、
多くの作品を公開してまいりました。
此処にはその中から選んだ
昭和時代の懐かしい「あの日あの頃」
の作品をまとめて見ました。

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