15年ぶりに味わった涙と性の宴。其の一
◇15年ぶりの我が家
その表札を見たとき、私は全身がバラバラになってしまうほどの衝撃を受けました。
雷に撃たれたようなショックを受けました。目ン玉が瞑れる位ゴシゴシと目を擦り、
何度も何度も見返しましたが、やはり表札は昔のままです。
はっきりと『村上章一』と書かれてあります。
15年間、妻は『村上章一』の表札を外さなかったのです。
『村上章一』の表札を掛け続けていたのです。
「表札だけは立派なものにしようね」
妻の提案で、二人して梅田の百貨店へ行き、
「一番高いやつを下さい」と言って選んだ、あの表札。
係りの人に「新婚なので」と少しはにかみながら言って選んだ、あの表札。
木製の堂々たる土台に『村上章一』と楷書で深く彫られた、あの表札。
出来上がった表札を二人して玄関にかけ、何時間も飽きずに眺めて、
「この表札に、負けんよう、がんばろうね」
と私の手を握ってくれた妻。その言葉に力強く頷いた私。
そして、妻の背中でスヤスヤと眠る幼い和恵の頭を撫で、
私は誰にも気兼ねすることなく、彼女達と一緒に暮らせる幸せと、
食わせていかなければならないという責任の重さを痛感していたのでした。
15年の間には、雨の日もあったろうし、雪の積もる日もあったでしょう。
風が埃を運んで来た事もあったでしょう。しかし、表札にそれほどくすみがないのは、
妻が磨いて呉れていたからに違いありません。
私の帰りを待ち続け、妻は一家の大黒柱である私の名を刻んだ表札を一生懸命、
心をこめて磨いていたのです。そんなことを思っていると、涙が滲んできました。
その日の朝、運送業をしている私は、仕事で15年ぶりに我が家の近くを通る
機会があり、どんなふうに成っているのだろうかと見に行く事にしました。
もちろん妻は家を引き払って、どこぞに引っ越しているだろうと思っていました。
何しろ15年振りなのですから・・・。
家は空き家か、他人が住んでいるか、あるいは更地になっているか?
そのいずれかだと信じて疑いませんでした。しかし、妻は家を引き払うどころか、
未だに私の名前の表札を出していてくれたのです。
夕暮れが迫り、玄関先にぶら下がった電灯に明かりが点りました。
中には妻がいるのです。足が震え、私は逃げ出したい心境に駆られました。
と、その時です、ガラス戸に人影が映ったかと思ったら、
戸がガラガラと懐かしい音を立てて開いたのです。
そこに年老いた妻の姿がありました。
手には柄の短い箒とチリトリ。家の前を掃除しようと出て来たのです。
「・・・・あ、あんたぁ!」エプロン姿の妻は私を認めると、
そう言ったまま口をあんぐりと開け、放心してしまいました。
化粧っ気のない唇がワナワナと震え出し、目尻の筋肉がピクピクと痙攣を起こして
見開いたままの瞳がじんわりと濡れてきます。暫く私たちは、僅か2メートルほどの距離をおいて、
凍りついたかのように突っ立ったままでいました。
最初に口を開いたのは、妻の方でした。
「おかえりなさい」
妻は裾で涙を拭うと、笑顔でそう言ったのです。「おかえりなさい」と言ったのです。
今朝出かけた亭主を迎え入れるかのように。
左手の人差し指に光るものがありました。結婚指輪です。
私と一緒に買いに行った結婚指輪です。
「高い指輪はいらへん。安うてもええ、章ちゃんと同じもんやったらなんでもええねん」
百貨店のわきにある、バッタ屋のような所で買った結婚指輪を、
私はとうの昔に失くしてしまったのに、妻はまだはめていたのです。
「・・・尚子」
薄い靄がかかったようになってぼんやりしていた視界が、いっきに曇って見えなくなりました。
嗚咽が込上げてきます。膝がガクガクと震えてきます。私は泣きました。
大声を上げて泣きました。妻にすがりついて泣きました。
15年前、会社の受付嬢だった年下の女と不倫関係に陥り、家庭を捨てた私。
ムンムンする若さに溺れ、永遠の愛を誓って一緒になった妻を捨てた私。
数日後、女のマンションで離婚届に自分の署名と印鑑を押し、
「これで俺はおまえのもんや」と女に言って妻に送りました。
「役所に提出おいて欲しい」とメモを添えて。
しかし、妻は出していなかったのです。15年間、私を待ち続けていたのです。
「入って、ええんか・・・」
妻は私を家の中に招き入れようとしましたが、15年間もほったらかしにしていたこんな男です。
敷居をまたぐ資格などどこにありましょうか。
「何言うてんよ、ここはあんたの家やろ。さ、はよ入り」
妻の、涙でくちゃくちゃになった笑顔は、菩薩の様な美しいものでした。
私は玄関でひざまずき、土下座して妻の前でうぉんうぉんと泣きじゃくりました。
「すまんかった、ほんまにすまんかった」
どんなに言葉を並べ立てても、許して貰えるとは思いません。
「ええんよ、もう、ええんよ。なんも言わんでええよ。さ、寒いやろ。うち入ろ」
肩を深く抱えられ、ガラス戸をくぐると、そこには私の靴がピカピカに磨かれて置いてありました。
私の涙はさらに溢れ出て止まりませんでした。
その表札を見たとき、私は全身がバラバラになってしまうほどの衝撃を受けました。
雷に撃たれたようなショックを受けました。目ン玉が瞑れる位ゴシゴシと目を擦り、
何度も何度も見返しましたが、やはり表札は昔のままです。
はっきりと『村上章一』と書かれてあります。
15年間、妻は『村上章一』の表札を外さなかったのです。
『村上章一』の表札を掛け続けていたのです。
「表札だけは立派なものにしようね」
妻の提案で、二人して梅田の百貨店へ行き、
「一番高いやつを下さい」と言って選んだ、あの表札。
係りの人に「新婚なので」と少しはにかみながら言って選んだ、あの表札。
木製の堂々たる土台に『村上章一』と楷書で深く彫られた、あの表札。
出来上がった表札を二人して玄関にかけ、何時間も飽きずに眺めて、
「この表札に、負けんよう、がんばろうね」
と私の手を握ってくれた妻。その言葉に力強く頷いた私。
そして、妻の背中でスヤスヤと眠る幼い和恵の頭を撫で、
私は誰にも気兼ねすることなく、彼女達と一緒に暮らせる幸せと、
食わせていかなければならないという責任の重さを痛感していたのでした。
15年の間には、雨の日もあったろうし、雪の積もる日もあったでしょう。
風が埃を運んで来た事もあったでしょう。しかし、表札にそれほどくすみがないのは、
妻が磨いて呉れていたからに違いありません。
私の帰りを待ち続け、妻は一家の大黒柱である私の名を刻んだ表札を一生懸命、
心をこめて磨いていたのです。そんなことを思っていると、涙が滲んできました。
その日の朝、運送業をしている私は、仕事で15年ぶりに我が家の近くを通る
機会があり、どんなふうに成っているのだろうかと見に行く事にしました。
もちろん妻は家を引き払って、どこぞに引っ越しているだろうと思っていました。
何しろ15年振りなのですから・・・。
家は空き家か、他人が住んでいるか、あるいは更地になっているか?
そのいずれかだと信じて疑いませんでした。しかし、妻は家を引き払うどころか、
未だに私の名前の表札を出していてくれたのです。
夕暮れが迫り、玄関先にぶら下がった電灯に明かりが点りました。
中には妻がいるのです。足が震え、私は逃げ出したい心境に駆られました。
と、その時です、ガラス戸に人影が映ったかと思ったら、
戸がガラガラと懐かしい音を立てて開いたのです。
そこに年老いた妻の姿がありました。
手には柄の短い箒とチリトリ。家の前を掃除しようと出て来たのです。
「・・・・あ、あんたぁ!」エプロン姿の妻は私を認めると、
そう言ったまま口をあんぐりと開け、放心してしまいました。
化粧っ気のない唇がワナワナと震え出し、目尻の筋肉がピクピクと痙攣を起こして
見開いたままの瞳がじんわりと濡れてきます。暫く私たちは、僅か2メートルほどの距離をおいて、
凍りついたかのように突っ立ったままでいました。
最初に口を開いたのは、妻の方でした。
「おかえりなさい」
妻は裾で涙を拭うと、笑顔でそう言ったのです。「おかえりなさい」と言ったのです。
今朝出かけた亭主を迎え入れるかのように。
左手の人差し指に光るものがありました。結婚指輪です。
私と一緒に買いに行った結婚指輪です。
「高い指輪はいらへん。安うてもええ、章ちゃんと同じもんやったらなんでもええねん」
百貨店のわきにある、バッタ屋のような所で買った結婚指輪を、
私はとうの昔に失くしてしまったのに、妻はまだはめていたのです。
「・・・尚子」
薄い靄がかかったようになってぼんやりしていた視界が、いっきに曇って見えなくなりました。
嗚咽が込上げてきます。膝がガクガクと震えてきます。私は泣きました。
大声を上げて泣きました。妻にすがりついて泣きました。
15年前、会社の受付嬢だった年下の女と不倫関係に陥り、家庭を捨てた私。
ムンムンする若さに溺れ、永遠の愛を誓って一緒になった妻を捨てた私。
数日後、女のマンションで離婚届に自分の署名と印鑑を押し、
「これで俺はおまえのもんや」と女に言って妻に送りました。
「役所に提出おいて欲しい」とメモを添えて。
しかし、妻は出していなかったのです。15年間、私を待ち続けていたのです。
「入って、ええんか・・・」
妻は私を家の中に招き入れようとしましたが、15年間もほったらかしにしていたこんな男です。
敷居をまたぐ資格などどこにありましょうか。
「何言うてんよ、ここはあんたの家やろ。さ、はよ入り」
妻の、涙でくちゃくちゃになった笑顔は、菩薩の様な美しいものでした。
私は玄関でひざまずき、土下座して妻の前でうぉんうぉんと泣きじゃくりました。
「すまんかった、ほんまにすまんかった」
どんなに言葉を並べ立てても、許して貰えるとは思いません。
「ええんよ、もう、ええんよ。なんも言わんでええよ。さ、寒いやろ。うち入ろ」
肩を深く抱えられ、ガラス戸をくぐると、そこには私の靴がピカピカに磨かれて置いてありました。
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プロフィール
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アヤメ草(万屋太郎)です。
演歌の作詞や官能小説書きを趣味とする、
今年72歳に成る“色ボケ爺さん”です。
何時も私のブログを見て頂き
有難う御座います。
私の別ブログ
“詩(うた)と小説で描く「愛の世界」”
も開設から八年目に入り、
多くの作品を公開してまいりました。
此処にはその中から選んだ
昭和時代の懐かしい「あの日あの頃」
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